僕がハワイを好きな理由

モーハワイブログから引っ越してきました。ハワイに行ける状況になったらこちらで更新していきたいと思います。

寺山修司・賛

Post-166僕が高校生の頃、日曜日の午後たまたまテレビをつけると競馬中継をやっていました。 普段ならすぐチャンネルを変えてしまうのですが、僕はそこに映っている一人の男に目が釘付けになりました。 その独自の口調とそこから発せられる言葉の数々に魅了されてしまい、競馬中継を楽しみに見るようになりました。

その人こそ、今はなき寺山修司です。

競馬が好きになったのも、後に演劇の世界に足を踏み入れたのも彼の影響だったのでしょう。

長いのですが、僕を競馬に引きずり込んだ大好きな彼の詩を引用します。

さらばハイセイコー」   寺山修司

ふりむくと 一人の少年工が立っている 彼はハイセイコーが勝つたび うれしくて カレーライスを三杯も食べた

ふりむくと 一人の失業者が立っている 彼はハイセイコーの馬券の配当で 病気の妻に 手鏡を買ってやった

ふりむくと 一人の車椅子の少女がいる 彼女はテレビのハイセイコーを見て 走ることの美しさを知った

ふりむくと 一人の酒場の女が立っている 彼女は五月二十七日のダービーの夜に 男に捨てられた

ふりむくと 一人の親不孝な運転手が立っている 彼はハイセイコーの配当で おふくろをハワイへ 連れていってやると言いながら とうとう約束を果たすことができなかった

ふりむくと 一人の人妻が立っている 彼女は夫に隠れて ハイセイコーの馬券を買ったことが たった一度の不貞なのだった

ふりむくと 一人のピアニストが立っている 彼はハイセイコーの生まれた三月六日に 自動車事故にあって失明した

ふりむくと 一人の出前持ちが立っている 彼は生まれて初めてもらった月給で ハイセイコーの写真を撮るために カメラを買った

ふりむくと 大都会の師走の風の中に まだ一度も新聞に名前の出たことのない 百万人のファンが立っている 人生の大レースに 自分の出番を待っている彼らの 一番うしろから せめて手を振って 別れのあいさつを送ってやろう ハイセイコーよ お前のいなくなった広い師走の競馬場に 希望だけが取り残されて 風に吹かれているのだ

ふりむくと 一人の馬手が立っている 彼は馬小屋のワラを片づけながら 昔 世話したハイセイコーのことを 思い出している

ふりむくと 一人の非行少年が立っている 彼は少年院の檻の中で ハイセイコーの強かった日のことを みんなに話してやっている

ふりむくと 一人の四回戦ボーイが立っている 彼は一番強い馬は ハイセイコーだと信じ サンドバッグにその写真を貼って たたきつづけた

ふりむくと 一人のミス・トルコが立っている 彼女はハイセイコーの馬券の配当で 新しいハンドバッグを買って ハイセイコーとネームを入れた

ふりむくと 一人の老人が立っている 彼はハイセイコーの馬券を買ってはずれ やけ酒を飲んで 終電車の中で眠ってしまった

ふりむくと 一人の受験生が立っている 彼はハイセイコーから 挫折のない人生はないと 教えられた

ふりむくと 一人の騎手が立っている かつてハイセイコーとともにレースに出走し 敗れて暗い日曜日の夜を 家族と口もきかずに過ごした

ふりむくと 一人の新聞売り子が立っている 彼の机の引き出しには ハイセイコーのはずれ馬券が 今も入っている

もう誰も振り向く者はないだろう うしろには暗い馬小屋があるだけで そこにはハイセイコーは もういないのだから

ふりむくな ふりむくな うしろには夢がない ハイセイコーがいなくなっても すべてのレースが終わるわけじゃない 人生という名の競馬場には 次のレースをまちかまえている百万頭の 名もないハイセイコーの群れが 朝焼けの中で 追い切りをしている地響きが聞こえてくる

思い切ることにしよう ハイセイコーは ただ数枚の馬券にすぎなかった ハイセイコーは ただひとレースの思い出にすぎなかった ハイセイコーは ただ三年間の連続ドラマにすぎなかった ハイセイコーはむなしかったある日々の 代償にすぎなかったのだと

だが忘れようとしても 眼を閉じると あの日のレースが見えてくる 耳をふさぐと あの日の喝采の音が 聞こえてくるのだ